願生浄土

布施


 「お布施」は今では、僧侶に対する「謝礼」のような意味合いで使われることが多いようです。
 インドの言葉「ダーナ」が「布施」と訳されました。
檀那寺、とか旦那さん、と言われる言葉の語源にもなっています。
 本来は、少しのものでもお互い分け合って生きる、という意味でありました。

  長い人生の間には様々なことが起こります。山あり、谷あり、と申しますが、一人では生きることの出来ないこの私の人生です。
 山に入り道に迷うこともありましょう。そんな時、お互い持っている少しの食料でも 「分け合いながら」生き続けることができるのです。
 「自分一人では生きられない、支えあいながら生きる」ということを教えてくれているのが「布施」の意味です。

 生きる、ということは物によってのみ支えあう訳ではありません。さまざまな思いを持って生きている私たちです。 他人と仲よくしたい、と願うこともあります。
 「布施」は「物」であり、現在では「お金」です。そのような布施を「財施」といいます。
 「法施」というお布施があります。これは「法」=「仏法」をお伝えすることです。
 「法」を説くことができなくても、物やお金がなくてもできる布施があります。
「無財施」といいます。七つ示されています。順にお話してまいります。

 まず、「眼施」です。「げんせ」と読みます。「目は口ほどにモノを言い」という言葉がありますが、 優しい眼・おだやかな眼・厳しい眼・すさんだ眼・あなどったような眼・恐れた眼・憎んだ眼・暗い眼、など心が眼にでてきます。
 皆さんの家族の中に一人でも「暗い眼」をしている方がいらっしゃったらどうでしょう。家中が暗くなります。 逆におだやかな眼をしている方があれば、周りの方もおだやかな心になります。

  犬を飼っています。この犬を連れて散歩をしますと、出会った女子中学生や高校生に「カワイイ〜」と言われることがあります。 血統書のついたブランド犬ではありません。黒と白の毛をした中型の雌犬です。綱を引いて上から見ている私には少し太り気味で、 エンゴエンゴと歩いている姿は決して美女ではありません。
 始めは気付きませんでしたが、すごく優しい、おだやかな眼をしているのです。
それが、向こうから来る人に心をなごませ、「カワイイ〜」と言わせるのかもしれないな、と思うようになりました。 犬でもできる「眼施」です。

 おだやかな眼はおだやかな心から表れ出てきます。一人で生きることのできないこの私です。おだやかな眼の方々に囲まれ、 生きることによってこの私もおだやかな心をいただき、生きて行くことができます。
 分け与えようとしなくても、お互いに分け与えながら生かしていただいているこの身を感じさせていただけることです。
 このように、自分一人だけが決して幸せにはなれません。周りの方が幸せだからこそ、私も幸せにならせていただけるのです。
 逆に、この私が厳しい眼をしていたら、周りの方はいつ責められるかと恐れて、心を固くしてしまいます。
 この世を地獄にするのもお浄土にするのもこの私であったと気付かせていただきたいものです。

2002.05 記
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